人は肩書に平伏すのか?

プロ野球ロッテの佐々木朗希投手の態度に高圧的な態度で詰め寄った球審の態度が是非を呼び話題となっています

少し趣は違うのですが私が最近経験した出来事を話したいと思います

まずは先日親しい知人のお母さまが亡くなりお通やに参列させていただいたのですが 18時会式だったのですがお坊さんが遅れ

始まったのが18時20分でした お坊さんは何事もなかったかのようにお経を読み終え

よくある読経後のお言葉もなく去っていきました

私が何を言いたいのかというと 20分も遅れたことに対する 詫びの言葉がない事への不満?です

何故お坊さんは一言「遅れて申し訳なかった」と言えなかったのでしょう?

人を待たせた場合 我々凡人の世界では詫びを入れるのが当然の行為です

人の上に立つお坊さんが そんな当たり前のことを何故言えないのか

言う必要がないと考えておられるのか

 

その次の日です

地元で神社の式典がありました

詳しい事は再触りがありますので省きますが

神主の高圧的な態度に触れ非常に違和感と 行き道理を感じたわけです

 

上記の事で私が思うことは お坊さんであれ 神主であれ

まず人であれということです

実社会では当たり前の事が出来ていない

肩書に胡坐をかいて 上から物を見る

またそれに従う人たちも お坊さんだから仕方がない 神主だから仕方がないと

理不尽な扱いにも従ってしまうことです

私は常日頃心がけていることがあります 肩書で人を見ないで人となりで人を見る

地元の議員さんだから偉いわけではない 地元の人のためにしっかり働いてくれるから尊敬を集めるわけです

お経を読めるから偉いわけではなく 慈悲深い行いで人の道を説いてくれるから 人知れず徳を積んでいるから偉いのです

祝詞を読める事が偉いのではなく そこにどれだけの慈しみを込めれるかが大切なのではないでしょうか

社長もしかり 社長が偉いのではなく お客様に満足していただき また社員に貢献出来、地域に貢献できることが素晴らしい経営者なのではないでしょうか

大切なのは肩書ではなく 人としての個 人としての生き様であると思います

我々はつい立場に溺れてしまい謙虚な気持ちを忘れがちになります

足元をしっかり見つめながら 日々生きていきたいと思います

 

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